トゥルルルールー。

図書館戦争観て来た。よかった〜。
観終わった後、ちょっと強くなったような気分になれる、いい映画でした。

笠原かっこよかったしかわいかったし。アクションシーンも息つく間もなくかっこよかった。原作は読んだことなくて、アニメで数話(小田原の後辺りまで)観ただけの知識しかなかったけど、メインキャストも合っているような気がして。音楽もよかった。(JIN-仁-のひとなんやね)

立川に向かうときの堂上の笠原を想った台詞ににやにやしたのと、最後の方で小田原後に笠原が堂上に言ったことばに胸熱。「堂上教官を超えます!」っていうのね。心の防弾チョッキで防げなかった目頭じわり。
何かを守るため、同じ志を持って、何かと必死に戦っているひとたちの生み出す相手への気持ちというのは、ただ何も無く平和を生きている人々の惚れたはれたを描いた映画より、なにかこころにささるものがあります。
同じ舞台でたたかうからこその、憧れ、敬意、好き、守りたいという感情。

本をすきな人間や、言葉を好きな人間は、きっと観ていてあつくなるものがある作品だと思う。

終わったあとから、ずっと「トゥルルルールー」って言っている(EDにも流れてた映画テーマ曲)

小学生時代以降はあまり、アクション映画とかアクションシーン(ハリウッドの超大作と言われるやつも日本のも)観なくて好きな方じゃなかったが、主人公たちが守りたいと思うものに共感できるかそうでもないかで、こんなにアクションシーンの見方が変わるんだな、ということに気付いてびっくりした。

一緒に観に行った人間は、「こんな風に本のために銃持って殺し合いとかする…?ありえない話に見えて、岡田背低すぎるな〜とかそんなんばっかり気になってた」と言って内容に疑問を抱いてきちんと納得していなかったみたいだが、さすがにここまでドンパチの事態は日本で無いにしても、しばらく前に話題になった、都の青少年なんとか条例の例とか、事件を起こした人間の部屋が捜索されてあまりよろしくないテイストの漫画やDVDなどが押収されたら何かそれらが事件に影響を与えたのではないか、ということがメディアにより連日報道されたり、負の出来事が表現と結び付けられる、というようなことはよくある。
ファンタジーのようでいて、決してファンタジーではない部分もどこかに。
でも、観てて思ったのは、これもやはり、本を守る側の立場から描かれた物語であって、実際猟奇的な作品や内臓ギャバァーな話、小さい子が犯される話を愛好して読んでる人間がもしなにかそういう事件を犯したなら、どこまで無関係と言えるかはわからないし、どれだけそれらの作品が人々に、本を読む手や映像を見る眼を負の力を宿すものに変えたのかを知りたい。鶏が先か、卵が先かの話になって来ると思うけど。
昔、授業で、ひぐらしを観た女の子が父親を劇中と同じ方法で〜…みたいなの、あったよな。
逆の立場にも片足を踏み入れられるということ。
”表現”がわるいんじゃなくて、その”表現”が日常になって行くことが問題なんだよな。

追記:

あれっ 今予告編動画サイトで観たら…映画本編になかった台詞がぽんぽん出てる…? 私が映画内で見落としただけ…?小田原後に司令と誘拐されたときの、怒鳴ってばっかりだけど〜とか、ほんとに堂上教官のこと好きなの…?とか。郁が堂上のことを、あのとき助けてくれた正義の味方だと知ったのは、映画の中では最後のシーンじゃなかったっけ。
最後のシーン、背はあからさまに足りてなかったけど、わたしも教官に頭ぽんぽんされたい。

それにしても榮倉奈々はやっぱりかわいい。あの髪型も候補にいれたい。
そして堂上教官みたいな上司がほしいと思った本日。