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幼少期の体験も、今の人格形成においてたぶん関係無いよ
されたこと、あれは犯罪だけど 相手は性犯罪者だけど、話したってなんにもならないから話さない 話さずに墓場まで持って行くのだろう
ドラマなら 分かりやすくドラマチックにすべての始まりの1話になりそうだけど 現実はそうじゃない
でももしその体験を、そのことについて何も思わない、わたしがなくした感情を、だれかが代わりに痛んでくれたりしたら、この人はなにがそんなにかなしいんだろうとみつめながら、上に冷たい水と下にあたたかいお湯が共存するお風呂みたいな温度感で、きっとそのひとに興味をもつのかもしれない

キャラによって演技を”嘘じゃなく変える”って言葉の意味が難しい。
キャラクターが驚いた時の演技って、いろんなキャラクターの声をやっているとどうしてもどのキャラクターにおいても、キャラによって声を変えても自分が驚いたときの素のぶぶんの驚き方…みたいなのが出てしまいがちになる。でも、その時に無理に「自分の素が出ないようにしよう」「キャラによって同じような驚き方にならないようにしよう」と固く思って、自分の意識をねじこんだ異物を入れるのではなく(この時、思考の中心にあるのは演じる固有のキャラクターの気持ちではなく、自分の声優としての技術で”いかに驚き方を変えるか”という意識や、過去に演じた既存の他者キャラクターとの比較になってしまっている)、世界にひとりしかいない固有のそのキャラの気持ちにまず第一に寄り添って「このキャラならどういう驚き方をするだろうか」と考えて、そこから音を出す、というのが、キャラによって演技を、”嘘じゃなく変える”ということなのだろうかと。自分が演じた他キャラとの比較のために声の出し方を変えたりするのでなく。”嘘じゃなく変える”というのは、もう少し略さずに言えば”そのキャラクターという一人の人間の気持ちに嘘をつかないように、メッセンジャーとしての代弁の仕方を変える”ということだろうか。書いてる今もなんだかわからないようなわかったような。


キャラによって気持ちを変えること。そのキャラクターの一生を、365日の一瞬一瞬の気持ちを背負って表現することなど、考えただけでも胸が重くなるし精神的にだいぶ消耗しそうだし、わたしにはまず無理だ。役者のひとや役者になろうとしているひとの話を聴くといつも思う。たぶん、役者になれるひと、何かを演じることができるひとはそれさえも楽しんで背負って行けるひとなんだろう。

自分がどうやったら幸せになるか、とか、どうやって生きるのが自分にとって一番幸せなのかとか、考えていても見付からない。
電車でお年寄りに席を譲るとか、家族を大切にするとか、「ありがとう」を伝えるようにするとか、そういうささいなことでも。

自分のためだけに生きるには、この世界と人生はあまりに永い。