おっぱいトーク
あるフォロワーさんが、今日の夕方に呟いていた、
「荒川強啓デイ・キャッチを聞いてたら、河西智美の手ブラ写真は幼児虐待にあたるらしい。なんで?と思ってたら「性別を逆にして考えてください。成人男性のちんこを女の子が直接手で触れて隠していたらどうですか?」と。性のシンボル、という点では同じことみたい。非常に分かりやすかった。」
という話。
ああ〜なるほどなあ〜と納得して、確かにそうだなあと思って、でもその時、
「でもこれその通りなんやけど、ただ不思議なのが、男の子がさわってても、いいやんおっぱいさわれるんやろ(`∀´)って思ってしまうけど、女の子がいちもつさわってるって考えると、いやあかんやろ…って脳直で自然に感じてしまう、世の中や自分の中にある妙な性差の意識が不思議やなあと思った。」
ってわたしは言ってた。
家に帰って夜、なんとなくお風呂場の前のタオルを取ったときに、
ふと、このことについて再度考えが浮かんで来て思った。
(以下、ついーと時系列)
おとこのこが写真集の女性のおっぱい手でさわって隠してる=おんなのこが男性のいちもつをさわらせてるのと同じと考えるとすると→幼児虐待っていわれてた話。おとこのこfeat.おっぱいを最初になんで受け入れられたかって言うと、おっぱいは性(生殖)の象徴ではないからではないか。
女性の陰部が例えば男児の手によってさわられて隠されていたら、そこが性(生殖)を表す場所であるという認識で、もっと拒絶反応多かった気がする自分の中で。男性のアンテナぶぶんは、そのまま性の象徴であるから、最初から拒絶が入るが、
女性のおっぱいは母を表し男女ともに自身の懐古的なぶぶんでもあるというところから、女性のおっぱいは生でもあり性でもあるという、グレーゾーンだからこう感じたのか。
でも、同じように、自身の起源であるのは、自身が生まれて来た穴、女性の下半身。同じ、母をかんじるぶぶんでも、なぜこちらはだめで、おっぱいはまだましと自分は感じてしまうのだろう。穴は、機械的?反射?おっぱいは、人間の意図?愛情? 穴に愛はなく、おっぱいには愛がある?
それよりそもそも、どうして生殖をあらわすものを自然と(頭ではなく)心が忌避してしまうのだろうか。見せるものじゃないから、というのはわかるし、わたしもそう思うけど、見せるものじゃないってインプットされて自然に心が感じるのが不思議だなぁと思って。
フォロワーさんから「おっぱいは、四足歩行では性器が丸見えだった人類が、二足歩行になったことで視界に入らなくなり生殖機能が低下。種の存続を危惧した女性が疑似尻の為に胸を膨らませたという説」をいただいて、なるほどする。ありがとうございます。そう言えばそんな話あったなぁ。
→おっぱいは救済措置。ああ〜だからグレーゾーン感がただよっていたのか〜、と納得。
「あとおっぱいに"I"はある。穴には”I”はない。単純にこれの可能性も示唆しておく。」(フォロワーさん)
→一人称…?!意識と無意識(厳密には”無意識”ではないけれど…無機質?)、って感じ?!
って思ったら、どうやら”OPPAI”と”ANA”のローマ字表記した時の構成成分についての言葉遊びのようだったw
こんなはなしに真剣にお付き合いいただいて、おっぱいが楽しくなって来た。
ありがとうございました。
これで2,3ヶ月分は「おっぱい」ってはつげんした気がする。