いつだって。

もう戻れない10代に対して思うのは、部活をもっと頑張っておけばよかったということ。

かけがえのない時間のなかで、その瞬間しかつながれない仲間たちと、汗水たらしておけばよかったということ。

私に、仲間という意識が希薄なのは、そういう当たり前のことをして来なかったせいかもしれない。

すこし涼しくなって来た夜、田んぼから虫の鳴く声がきこえて、車の音と、自転車で坂をかけおりる近所の高校の部活帰りの男の子たちの声 を聴いて思う。

るるる。

兵庫県立文化芸術センターにて舞台「今度は愛妻家」、観て来ました。
この舞台については、入野自由くんが出演されることを知ったのきっかけで観に行った。

幕が開く前と閉じた後に流れていたピアノの曲の音がしばらくぐるぐるしていた。

きれいな川の水の上を、小さな、人の思いを乗せた笹船が流れて行くような物語だった。
手のひらに収まる小さなサイズ。誰にでも起こりうること、普遍的ということか。

妻の死から1年経っても立ち直れず、妻の幻覚と話しつづける北見に向かって、村井國夫氏演じるブンさんが言っていた「死だけじゃなくとも、人と人が別れることはある。会いたくても会えない人を抱えてる人はたくさんいる。会えなくても、ああどこかで幸せに暮らしてるんだろうなと思うことでやって行ける」みたいな言葉(曖昧だけれど)が、ずんと印象に残った。
もうその人はそこにはいない。でも例えば「天国で元気にしてるだろうな」と”無い”ものをちゃんと認めた上で”在る”希望をもつこと、やっぱりそう思うことで心に墓標を立て、残されたその人が強く生きて行けるきっかけになるのなら。それはとても尊い

名塚さん演じる蘭子ちゃんのキャラクターが好きでした。
蘭子とブンさんがソファで語らう二人のシーンが好きだった。細かいせりふは覚えてないけど、蘭子がブンさんと誠に妊娠したかもしれないことを伝えて、誠が出て行ったあと、自分を悪く言う蘭子をブンさんがブンさんらしく慰めるシーン。あたたかかった気がする。

最後、物語の最終章。いったんさくらとバイバイしたあと(それは北見がさくらにすがりつくのを辞め、前に進もうとしたことをあらわす)に何シーンか進んで、家を出ていく前の北見がもう一度、家のなかでさくらを呼ぶ。
でも、そこで北見は、部屋の奥から出てきたさくらに話しかけるのでなく、部屋の棚に飾ってある”生きていた頃”の写真のさくらに「いってきます」を言って部屋を出ていく。
完全吹っ切れてもう出て来ないと思っていたので、「あれっさくら、出て来ちゃうんだ。。」って最初さくらがもう一度出て来たときちょっと気持ち引いたけど、あえて、さくらを出して、目の前の幻覚のさくらに話しかけず、写真の思い出のなかのさくらに「いってきます」を話しかけることで、北見がさくらの死から立ち直り新しい日常を歩き出す方向に向かっていることを、よりつよく印象づけられるシーンだった。あれは北見が本当にさくらのことを見えなくてそういう行動を取ったのか、それとも、あえて幻覚のさくらを呼んで自分の前に出て来させた上で写真のなかのさくらに話し掛ける姿を見せることで、もう過去であることを暗に幻覚のなかのさくらに伝えたかったんだろうか。(それは自分自身で、本当のことを受け入れる儀式でもある)
あの後のさくらの最後、物語自体の一番最後のセリフ「いってらっしゃい」は、さくらがいない生活の中にこれから飛び込んで行こうとする北見への言葉だったのかな。

なんか思うのが、たぶん、誰かの死に直面したり、別れを経験してそこから立ち直れない、生きていた頃のその人の存在にすがってしまう人って、もしかして、「生きていた頃のその人にいっぱい愛を与えることができていた人」ではなく、「生きている頃にその人に何もしてやれなかった人」の方なんじゃないかって思った。たぶん、大切にしてやれなかった後悔からそうなるんだろうな。
受験やテストとかと同等で語るのはよくないかもだけど、テストでも、普段からいっぱいちゃんと勉強してやり切ったという自信を持って試験に臨む人は、仮に落ちたとしても、「でも自分はやり切ったから後悔してない」と思うのと一緒で。

それにしても、結構時系列と言うか、大分序盤から「さくらがこの世にいない」ことを、さくらの着る白い衣装でうすうす気付いてはいたのだけど、私の記憶力と集中力が足りてないせいで(3分見たら1分前のことも詳細には忘れてそうな勢い)、目の前で進行して行く物語を見ながらも「あれ、いつから亡くなった状態だったんだっけ…」と同時進行で過去をほじくり返してたらちょっと分からなくなって。
さくらが死んでからしばらく経って(恐らくあの時点で1年弱くらい)、蘭子を家に呼んだ北見が蘭子からの身体の関係を断ったシーン。あそこで、部屋に飾ってあるさくらの写真を見て質問する蘭子に「それ、俺の奥さん」みたいなことを言って、「俺、結婚してるから」と言って関係を断る。あのあと風呂を貸してほしいと言う蘭子に風呂を貸し、蘭子がシャワーへ消えて行った後「こういうのは、ほいほいやったらダメなんだ、真面目に我慢してこそ」みたいなことを言い始め急にゲスキャラになり始める北見→白服のさくらの再登場シーン。これは、どういう気持ちで北見はこの時、このゲスいような発言をしていたのだろう。この時、すでに妻が亡くなっていて、北見はきっと辛かったりしたはずでしょう? あえて浮気を匂わすことで、(死んだはずの/幻覚の)さくらの気を引いてまた出て来てもらおうとしたのか?
それとも、この発言の真意は本当で、蘭子を使って本当にさくらを忘れようとしたのか?
なんだろう、私がちゃんと覚えてないせいだと思うけど、この話は、真実を知った上でもう一度時系列を追いながら観たら、さらに味わって楽しめるんじゃないかと思った。もう一度、すべて知った上で観てみたかったな。

Wキャストで最後のアンコールに出て来られた、誠役の石井さんと蘭子役の今村さんを見て、今日のみゆくんと名塚さんが演じられてた誠像と蘭子像と結構印象ちがうなあ!とびっくりした。役者さんの見た目的にだけど。このお二人が演じられる誠と蘭子も、どんな感じだったのか気になるなあと思った。

裸・マン。

なんかなんにも感じられないなら、なんにも考えないなら、生きている意味は無いと思っていて、生きている意味は無いと積極的には思ってる訳じゃないけど(積極的に思うほどの気力すら無い)、社会人になってしばらくしてから、なんにも考えなくなったし、感じる時に反応する鉄のぜんまいが錆びてふるくなって引っ掛かって動かないし、難しいことを考えようとしなくなった。なんとなくライドオンしている。ずっとこんなかんじなのだろうか。錆びたものをまた再び磨いたとして、ふたたび、引っ掛かりなく回り始めてくれるのだろうか。

目を塞いで。

このままずっとこうやって生きて行くんかな…と思った。

歩いていこう、の、"ここにある今が僕の全て"、って歌詞で、ワールドアパートの、"僕の両手にはこれだけだよ,心の中に革命を"、っていう歌詞を思い出した。

Till I die.

キルラキル、今まで溜めてた分を7話〜10話まで連続で観てたのだが、
7話は喧嘩部が出来て今までの、単に外の敵と戦うだけだったのがちょっと様子が変わったり、8話からは四天王との戦いが始まったりで、展開に動きが出て来て面白く観れてる。
6話までは、結構なんと言うかいつも同じ感じと言うか、流子を襲って来る他の部活の敵と戦うだけ…みたいな1話完結の話で、なんか微妙やなーって思って視聴進められてなかったんよね。蟇郡先輩とマコがカップリングされる理由が7話以降になってようやく分かって来た。蛇崩との戦いの時に観客席で観戦してた半裸の蟇郡先輩とジャージ犬牟田に挟まれるマコの図、がかわいくてちょっとうふふした。 犬牟田、ジャージあんなんなんやw

君が自由であること。

アナと雪の女王観て来た。人を受け入れるということは、自分を受け入れることだと感じた。

以下、ネタバレ感想。

エルサが人を傷付けることをおそれ氷の城に逃げ込んで、ありのままの姿見せるのよ、という歌を歌ったときの意味と、物語の一番最後でエルサがアナたちや周りの大切な人達を受け入れて自在に氷をあやつってからのエンディングで聴こえて来た、ありのままの姿見せるのよ、の歌の意味は、どこか違って聴こえた。

エルサが氷の山に逃げ込んで、今まで自分の中で忌ま忌ましく抑えこんでいた、力を解放し、自分だけの氷の城を作ったとき、よかったね…自由になれて…と涙腺がゆるんだことは事実だが、でもそのよかったね…には、どこかさびしさもある気がしてて。結局、エルサは人を傷付けたくなくて、アナたち大切な人達を傷付けたくなくて自分だけの城にこもった訳だけど、自分を思って訪ねて来てくれた妹のアナを、「あなたを傷付けたくない」という理由で拒んで、追い返してしまった。その時点で、エルサは確かに力に対しては自由になったけど、人をまだ、受け入れられていなかった。最初、抑えていた力が暴発しないために、魔法の力で人を傷付けてしまわないように、人を拒んで避けていたエルサだったけど、解放されても尚、心は人を拒んでいた。たぶん、自分の力が人や周りを凍らせるのと同時に、自分の心があの時(幼少期にアナを傷付けた時)から凍ったままだったのだろう。

でも最後、エルサを守るためにアナがハンスの剣を受け止めて氷の像になったのを目の当たりにして、エルサはアナを心から思って抱きしめる。その瞬間に、アナの身体を覆っていた氷は溶け、周囲の雪の国だった景色の氷も溶け始めた。
真実の愛は氷を溶かす−。そうオラフが言ったように、エルサが人を心から思い、自分を受け入れてくれる人を受け入れたからだ。

人に受け入れられ、人を受け入れ、自分を受け止めることができたエルサが、最後、自分が今まで罪と感じ抑えて来た魔法の力で周りの人々を喜ばせるものたちをつくる。
その時のエルサの表情は、とても自由で。軽やかで。
そのエンディングのシーンからのエンドロールの歌、ありのままの姿見せるのよ、は、中盤の氷の城に逃げ込んだときのエルサが歌うウタとは違い、本当に心底自分の持つ力を、自分を受け入れることができた人の喜びや活力を力強くうたった歌に聴こえた。

真実の愛は氷を溶かす−。それは、アナや国の氷だけでなく、エルサの心の氷のダブルミーニングだったのか…と。姉妹の話でいて、エルサの凍った心を溶かす物語だったのかなぁ。

人を受け入れることが、自分を受け入れることにつながるんじゃないかとそう思う。

そんな風に感じた。<<番外編>>
人を受け入れることが、自分を受け入れることにつながるんじゃないかの件について。
恋や愛やのお話についても、自分のことがどれだけイヤだと思っていても、相手が、それでも好きだよ、君のそういうとこが好きだよ、とずっと言い続けてくれていたなら、自分がいつしかその相手を受け入れたとき、それは今まできらっていたはずの自分自身でさえも、受け入れられたということになるんじゃないかと。

あとその人の個性を大切にするという意味で。子供や人を育てるなら…ってこと考えると、やっぱり無理に抑え付けるのでなく、ありのまま伸び伸びといさせてあげる環境をつくることが、その人のためになると思った。